落し物

 

 いつも通りの町並み。昨日の夜は多少雨が降っていたが、すぐにあがったのだろう、特に道路が濡れているわけでもなく、空は青く高い。
 風だってとても爽やかだというのに、学校に行くというだけの行為が、どうしてこうも面倒くさいのだろう。高校に入って、通学距離ははるかに伸びた。 最初はそれも新鮮だし、当然であると思っていたが、半年もたてば日常になる。
 だが、帰るという選択肢は脳裏にはない。
 それでも足取りの重い俺の足元に、白い物体が一枚落ちていた。思わず立ち止まり、しゃがみこんだが、ながめるだけにとどまる。
 紙製の薄っぺらな物ではなく、分厚いガーゼで出来た、今どきとはいえない物。
 ぽってりとしたそのマスクの、真ん中に折り目がうっすらとついている事からすると、おそらくだれかがポケットに入れるのを失敗したに違いない。
「おい、変態」
 聞き覚えのある声が聞こえたが、俺――松野博司は、マスクから目を離せずにいる。
 めずらしい。幼子がしているような小さな物ではない事から、大人の物だと思われた。

 素手で触れたら――感染するだろうか?

「おい、松野っ! 聞こえてて無視してんじゃねーよ」
「聞こえてるから、返事をしないんだ」
「はあ?」
 またでかい口を開けて、因縁つけてこようとしているのだろう。
 やれやれと立ち上がり、振り返る。
 目に入ってくるのは、また代わり映えのない地味な男――金谷守。同じクラスで、高校デビューらしい。明るめの茶髪にしているのは、地味からの脱却とか叫んでいた気がする。
「金谷か。なんの用だ」
「はあ? こっちのセリフだろうよ」
「ああ、挨拶か。おはよう。これでいいか?」
「……お前、実はバカにしてんだろ」
「実はもなにも、その通りじゃないか」
 彼の顔色がみるみるうちに赤くなったが、気にするほどのことでもない。
 周りを飛ぶハエを追い払うように手を振ってやれば、疲れたように金谷は肩を落とした。
「おまえさぁ……まあいいや、なにしてたんだよ」
「関係あるのか?」
「なにが?」
 ころころと良く動く表情筋は、金谷の顔を怪訝な表情に変える。
 黙って地面を指差せば、またかとでも言いたそうに顔をゆがめた。
「またキモイもん見つけてんのかよ」
「キモイ? どこがだ」
「どこがって……だれが使ったかもわかんねーマスクなんて、キモすぎんだろ」
「なるほど」
 そういう考え方もあるのか。と、金谷に完全に背中を向けながら、少しばかり納得する。
 だったら、だれが使った物かがわかれば、気持ち悪くはなくなるのだろうか? 触れことで、感染するような代物だったとしても?
 疑問は、簡単に解決するだろう。後ろでお前は入学したときからそーだとか、あーだこーだと文句を垂れ流している金谷からは、見ることは出来ないとわかっていながら、口元を隠した。
「おい、地味王」
「だからお前は変人とか……って、なんだ! 地味はともかく、王ってなんだ!」
「これを落とした人物を教えようか?」
「興味ねーし」
 少しだけ振り返れば、また始まったと表情が語る。いたって素直だ。
「そうか? お前が少なからずその人物にかかわれたとしてもか?」
 もったいぶって持ちかければ、事態の理解が出来ないのだろう。きょとんとした顔で先をうながしてくる。
「金谷、いいか? まずマスクをするということは、どんな状況だ?」
「はあ? 風邪だろ? まあ後は花粉症とか」
「そうだ。だけど考えてもみろ、花粉症だとガーゼのマスクじゃ役に立たないだろ?」
「ああ、なんかテレビでそーゆーこと、言ってた気もすんな」
 金谷の言葉に、ひとつうなずいて。
 俺はもう一度、くたっと広がっているマスクを指差した。
 おもわずといった調子で、彼の目もそちらに向けられる。
「いいか? 昨日の夜は雨が降っていた。朝方にやんで、今はだいぶ乾いている。昨日落とされた物であれば、マスク自体に水をふくんでいるはずだが、これには濡れた形跡はない」
「だ、だからなんだよ」
 金谷は遠巻きに素通っていく学校の連中の目を気にして、気もそぞろな風体だ。
 仕方なく俺は、少し後ずさった彼の腕を引っ張り、マスクのようすを見せる。
「聞いとけ! いいか、この気候だ。体調を崩す人間は、少ないだろ? ここに落ちてる理由はなんだ」
「知らねーし。あ、俺そろそろ学校にいかねーと」
「ったく。家からしてきたものの、そのまましていくと恥ずかしいから、この辺で外してポケットに入れた。つもりだったが落としたってとこだろう」
「そーかそーか。解決だな、うん。よかったよかった」
 振り払おうと腕を振ってきたが、毛頭離すつもりはない。
 なぜなら、まだ話は済んでいないからだ。
 通学時間のピークだろうか、人が増えてきたことくらい気付かない俺ではない。だが、そろそろか? と思っていたところで、声がかけられた。
 少し鼻にかかった高い声。おかっぱを少し揺らして、楽しいことを見つけたとでもばかりに目を輝かしている同じクラスの河合愛海《かわいあみ》。
「おはよ! なに? またなにか発見したの?」
「え、いや、あの。なんでもないって! 松野が、なんか腹いてーって言ってただけだって」
「そうなの? 松野君、学校に着いたら、保健室寄りなよ?」
「ああ、そうだな」
 じゃあねと手を振り、女子の輪に戻っていく。背の低い彼女の姿は、すぐに友達の影に消える。
「愛海。そういえば風邪、大丈夫なの?」
「そうだよー、昨日くしゃみすごかったでしょ?」
「う、うん。大丈夫だよ。ちゃんと薬飲んできたし」
 その言葉を聞いて、アホ面のまま手を振っていた金谷は動きを止めた。
 周りの声も聞こえてないようすの彼に、俺はひじで横腹をこづいてやる。
「ここから学校まで、すぐそこだし。マスク姿を見られるって、なんか恥ずかしくないか?慣れなきゃ特に。本当はしてようが大したことないのにな」
「松野。ひょっとして……そう、か」
 金谷は細目を出来るだけ大きく見開き、俺を凝視してくる。
 顔を赤くして、挙動不審気味にマスクと俺を見比べ、なにやら葛藤しているかのようだった。
 まだ少し湿った風が、頬をなでたところで、考えがまとまったのだろう。
「おい、松野。もしお前が落し物を拾ったら、どうやって届ける?」
「これ、落としましたよ? くらいじゃないか?」
「もっとこー、女子の心を惹きつけるようなセリフはないのかよ!」
 見たこともない真剣な顔で詰め寄ってくる金谷に、両手を突き出して距離をとりながら言ってやる。
「そうだな。相手の状態を見て、付け足したらどうだ? 気づかってやれる男は、悪くないだろ」
「そうか、気づかいだな! よ、よしっ!」

 言うやいなや、落ちていたマスクを問題なく拾い上げ、河合へと走っていった。
 ここからでも無駄にでかい声で話す内容は聞こえてくる。時折ひっくり返った声も耳にしたが、本人はそれどころじゃないのだろう。
「あ、あのさ! 河合、これ落としただろ」
「え? ううん、落としてないよ」
「べ、別に恥ずかしがることじゃないと思うぜ? マスクしてれば、周りに気を使ってるイイヤツじゃんって思うし」
「えっと、だからね……」
 彼女は困った感情を笑顔に乗せながら、やんわりと両手の平を金谷に向け拒んでいる。
 だが、必死の金谷は気がつかないのだろう。
 その手の平に、落ちていたマスクを押し付けた。
 ――その瞬間、今まで愛想良くしていた彼女の顔つきが一変した。
「やめてよっ! 私のじゃないって言ってるじゃない!」

 乾いた音がした。

 驚いた顔をしている茶髪の男は、叩かれた手の痛みに混乱しているようだった。
 かわいそうなマスクは叩き落され、地面に伸びている。
 河合は目の前で途方に暮れている金谷を、まっすぐににらみつけていた。
 それを眺め、頭の回路がやっと繋がったのだろう。金谷は傍目から見てもわかるくらい、真っ青になっていた。
 通学中のざわめきが、この騒動のせいでなくなっている。
 だれもが、息をのむようにして静かに通り過ぎていく。
 その空気を気にもとめず、彼女は怒りの声をあげた。
「だれのかわからないマスクを押し付けるなんて、ひどい! 風邪だって治りかけてきたのに、なに? ずっと病気でいろって? 金谷君、サイテー!」
「金谷、なにしてるんだよ」
「だ、だって、お前……そうだよ、松野が河合のだって言うから!」
「いいや。俺は一言もそんなこと言ってない」
「松野君が?」
 軽蔑の目を俺にも向けてきたが、さきほど河合がしたように両手の平を彼女に向けた。
 とばっちりはごめんだ。
「俺はマスクが落ちている事実を語っただけだ。こいつが勝手に勘違いしただけ」
「うらぎんのかよっ!」
「裏切るもなにも、マスクは俺が来たときにはすでに落ちていた。後から来た河合が落とせるはずがないだろ?」
「そ……っ!」
 金魚のように口をぱくつかせる金谷を冷たい目で見やり、河合はすぐに目をそらした。
「みんな、行こ。松野君も一緒に」
「そうだな」
「や、待っ……!」
 腰が抜けたのか、しゃがみこんだ金谷を横目に、彼女達ともに歩を進める。
 背後からは、待てこの卑怯者! などと遠吠えが聞こえてきた。
「……馬鹿だな」
 俺の笑いをふくんだ一声に場が和んだのか、強張った顔をしていた河合と友人二人は同時に顔を見合わせて吹き出した。
「ほんっと、バカね!」

 一日はまだ始まったばかりだ。
 空は高く青い。昨夜の雨で、空気中の汚れが洗われたせいか、視界もすっきりとしている。
 うん、悪くない。
 変わらない憂鬱な日だと思っていたが、今日は楽しくなりそうな予感がした。

 

 

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